小田原 寺院 仏教 相談

小田原 寺院 仏教 相談
小田原 寺院 仏教 相談
仏教の楽しみ方
仏教相談
仏教の理解
仏教語の解説のバックナンバー
今月のミニ法話のバックナンバー
その他のバックナンバー

小田原 寺院 仏教 相談
禅語の楽しみのバックナンバー

小田原 寺院 仏教 相談
寺院概要/アクセスマップ
小田原 寺院 仏教 相談
お問い合わせフォーム             サイトポリシー
小田原 寺院 仏教 相談
小田原 寺院 仏教 相談
       今月のミニ法話のバックナンバー
11月のミニ法話
      三つのお布施(財施・無財施・法施)


   [4]つながっている。<br>
 先程(前回)お示し致しました賢治の詩と現代人の欲ボケが対称的です。
賢治は「南ニ死ニサウナ人アレバ、行ッテコハガラナクテモイ〃トイヒ」と言っています。欲望の奴隷となった一部の現代人は、魔法や超能力を望んで、死すべき命を甦らせてくれと要求し、詐欺や新興宗教いかがわしい団体の被害にあうのです。詐欺は悪いことですが 
、無理を叶えてくれと望む時、私達は餓鬼となっていることでしょう。」
 賢治は「北ニケンクヮヤソショウガアレバ
、ツマラナイカラヤメロトイヒ」と言っています。今は学校でも会社でもどこもかしこも勝つことのみを追い求め、負けることを嫌います。
仏祖のお智慧は違います。全てのものはつながりあってできていると考えます。迷いの世俗は二元対立、悟りの菩薩は一枚平等というわけです。右手で左手を殴り、左足で右足を蹴り倒す程バカな人はいないでしょう。
自分は自己、自分以外はもう一人の自己、他の自己で他己といいます。ひとつづきの私たちは、もう一人の自己、他己を傷つけられないのです。だから賢治は「北ニケンクヮヤソショウガ・・・ヤメロトイヒ」です。
 網の交差する部分を一人の人間と考え、網全体を社会と考えますと、網はどの部分が破れても網として成り立ちません。私たちの社会も誰一人として軽んじられたり、粗末にしていい人はいません。衆生一人一人が幸福に
ならないと、「わたし」の幸福は完成しないのです。


10月のミニ法話
       三つのお布施(財施・無財施・法施)


(3)   ジブンヲカンジョウニ入レズニ
 宮澤賢治の理想とした生き方が「雨ニモマケズ」の詩に著わされています。菩提心、菩薩行の発露です。

  雨ニモマケズ
  風ニモマケズ
  雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
  丈夫ナカラダヲモチ
   欲ハナク
  決シテ瞋ラズ
  イツモシズカニワラッテヰル
  一日ニ玄米四合ト
  味噌ト少シノ野菜ヲタベ
  アラユルコトヲ 
  ジブンヲカンジョウニ入レズニ
  ヨクミキキシワカリ
  ソシテワスレズ
  野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
  小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
  東ニ病気ノコドモアレバ
  行ッテ看病シテヤリ
  西ニツカレタ母アレバ
  行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
  南ニ死ニサウナ人アレバ
  行ッテコハガラナクテモイ〃トイヒ
  北ニケンクヮヤソショウガアレバ
  ツマラナイカラヤメロトイヒ 
  ヒデリノトキハナミダヲナガシ
  サムサノナツハオロオロアルキ
  ミンナニ デクノボートヨバレ  ホメラレモセズ
  クニモサレズ 
  サウイフモノニ
  ワタシハナリタイ

 皆様は、羅漢や菩薩など到底「私には無理」と思われるかもしれません。そんな事はありません。皆様に赤ちゃんが授かった時を思い出してください。真っ赤な顔で力一杯泣いているお子様、お孫様を見た時、感謝でいっぱいになったはずです。わが子、わが孫の為なら何でもしようと思われたに違いありません。心の底から赤ちゃんの幸福を願ったことでしょう。その時にご自身の事など忘れている。無我ではないでしょうか。この子の為ならどんなことでもできると誓ったのではないでしょうか。それが菩薩心です。夜、何度も起きておむつやミルクのお世話をなさったでしょう。それが菩薩行です。みんな無意識に行じているのです。 今、ダイニングキッチンが流行っています。お母様は揚げたての天ぷらを家族に提供なさいますね。焼きたての料理、蒸したての料理がでてきます。お子様たちの「お母さんは食べないの?」の言葉に皆様は「お母さんはいいから熱いうちに食べてね。」とおっしゃいます。料理が得意な男性もいらっしゃいますから、日曜日はお父様がそうおっしゃっているかもしれません。その時の「お母さんはいいから」「お父さんはいいから」はまさに賢治の「ジブンヲカンジョウニ入レズニ」の生き方ではないでしょうか。その時の皆様は確かに菩薩様ですね。 しかし、いつも菩薩様ではいられません。修羅になったり餓鬼になったりさえ致します。今回のお話は誰もが十界を持っているのだけれども、迷いの六道でなく悟りの四聖で生きていきましょうというお話です。財施・無財施・法施を行じ、相手の幸福衆生の安穏を願うときこそ、自他共に救われていく瞬間なのだとご理解頂きたいのです。そして、それは瞬間で終わらせず、連続であってほしいと願うのです。

8月のミニ法話
       三つのお布施(財施・無財施・法施)

         
 
   (2)お布施<br>
 お布施というと法要やお盆彼岸にお寺に対してなすものと思っていらっしゃる方が多いようです。お布施の本来の意味は、相手や衆生の幸福を願い、その実現の為の行為をいいます。故人の追善供養でのお布施のみならず
、二祖忌三仏会の香資も誕生日のプレゼントも入学祝など、みな全て布施行ということになります。寺には皆様からのお野菜や季節の品が贈られますが、それら全てがお布施です。金品が介在しますから、こういうお布施を財施といいます。
 金品を必要としないのが「無財の七施」です。@優しい微笑みを保つ和顔施、A相手を慮った眼差しの慈眼施、B人生を変えてしまう程の智慧に溢れた言葉の愛語施、Cいつも相手への心配りを忘れない心慮施、D今日の一日をボランティアに使おうという捨身施、E席を譲る床座施、F部屋を提供する房舎施。 
 お坊さんの一番の役目が法施です。人々の心から不安や苦しみ悲しみを取り除くお布施です。社会から不安や苦しみを取り除くと言ってもよいでしょう。それは釈尊のお智慧やお慈悲を提供して行われます。不肖参禅の師
、看雲室中村祖順老大師は、お坊さんがただ黙々と日常を行じている。それだけで法施になるような禅僧になれとお示しくださいました。
これはお坊さんだけの専門ではありません。檀信徒の皆様もそういうはたらきができます。それには名師について仏法を学ぶことです。人の心から迷いや不安を取り除く、何とすばらしいお布施ではありませんか。僧俗共にこのお布施が行ぜられる時、社会から幾多の苦しみ悲しみが減ることでしょう。
衆生の迷苦を払拭する為に、大徳僧堂で嶺雲室老大師と雲衲衆が、南宗僧堂、崇福僧堂で吹毛軒老大師、坐雲軒老大師と雲衲衆が精進くださって、法施のできる和尚様が育っています。皆様も菩提寺の和尚様と禅を学び法施を行じて頂きたいと願っております。


7月のミニ法話
       三つのお布施(財施・無財施・法施)

         
   (1)菩薩という名のお寺
 七月八月はお施餓鬼の季節です。彼岸会や他の季節にも施餓鬼会が行われます。僧堂の講中斎も施餓鬼会の法要です。
阿難尊者が釈尊からの教えによって始まった施餓鬼会ですが、目連尊者が釈尊からの教えによって始まった盂蘭盆会にあわせて行われることが多いようです。
 夏の施餓鬼法話を依頼されることがあります。御住職から「法話を始めたばかりで、聴衆は法話を聴くことに慣れていません。易しい内容でお願いします。」と頼まれた場合には、「地獄・極楽」のお話をよくいたします。
地獄も極楽も最初は同じ環境ですが、そこにいる人々の心のありようで環境も両極端に変わってくるという内容です。環境問題の講演にも使える内容です。
 この地獄、極楽というのは死後のことではなく、生きている人々の心の状態をいいます。人間の心の状態を仏の四つと迷いの六つに分けて考えます。仏の四つを四聖、迷いの六つを六道(六趣)といい、合わせて十界です。
六道は悪い方から地獄、最悪の心の状態。餓鬼、過ぎた欲望の世界、本人もまわりの人々も傷つけます。畜生、自分で精進せずに誰かに依存して生きる生き方。修羅、争いの世界。人間、皆様よくご存じの私達が暮らす社会。天上、物や寿命に恵まれていても、仏としては欠損のある世界。
四聖は初級から、声聞、仏の教えを聞き受け入れ実行しつつある方々。羅漢(縁覚・独覚
)、自身の悩み不安は克服できた方々。
菩薩、ある時は導き、ある時は背を押して人様をお浄土へ案内できる方々。そして人格を完成された如来(仏)です。
 日本に伝わった仏教は大乗仏教で、大乗仏教は菩薩として生きていく菩薩道の生き方を教えます。菩薩というのは菩提薩?の略語です。菩提は悟りとも訳し、相手の幸福を願う気持ちとも訳します。薩?は丈夫と訳します。皆様がよくお使いになる大丈夫は大薩?の意で、心も身体もすこやかで安定していることです。菩薩とはお悟りを行じ、相手の幸福を願い実行する、心も身も柔軟で安定したお方をいいます。
 大燈国師が開かれた私達のご本山大徳寺の大徳とは菩薩の別称です。国師は僧侶なら地蔵菩薩に、檀信徒の皆様には観音菩薩や文珠菩薩になって社会を潤して頂きたいと願って
、大徳寺という禅の道場を建立されました。

9月のミニ法話
      達磨忌


 毎年の十月五日には達磨忌と称して禅宗寺院のお堂に画像を掛け三具足等で荘厳し膳や茶菓を供え偈や経文を唱えて法要を行います。僧侶のみだけでなく檀信徒等の参詣者を招く場合もあります。 
達磨大師は南天竺・香至国の第三王子で、出家修行の後釈尊から二十八代目の祖師となりました。中国に悟りの宗教体験を伴った仏法を伝え、正式には初祖菩提達磨圓覚大師とお呼びします。達磨大師の仏教は禅宗と呼ばれ中国仏教の中心となり、念仏阿弥陀信仰と共に中国の民衆や近隣諸国に受け容れられました。
 経典を奉読学習する仏語宗と呼ばれる他の仏教と異なり、達磨の仏教は仏の心・悟りの心を修行者自身の内に確認することを目的としているので仏心宗と呼ばれます。
 禅宗寺院では祖師堂、開山堂、方丈にお像が安置されています。
 正月の朱衣達磨、梁の武帝との問答を描いた達磨武帝図、芦の葉に乗って揚子江を渡る芦葉達磨、壁に向かって坐禅する面壁達磨(背面達磨)、柩に片方の履を残しもう片方のみを履くか手に持つ隻履達磨、二祖慧可が左臂を切り落とし教えを乞うた断臂図、最も多い半身達磨が有名です。
 また、茶席の軸物は初期には禅僧の筆による達磨像が多く掛けられました。
 やがて広く文人画家の画題ともなり、張り子の姿ともなって七転び八起・厄除けなど庶民に親しまれています。

8月のミニ法話
      先祖の位牌・年忌


 仏教は本来、人の心を安定させ人格を完成させる為の釈尊の教えです。現在の日本の仏教の特徴は先祖供養が中心にあるのです。
 仏教では初七日、二七日・・・七七忌(四十九日法要)として七回の儀式をしてきました。 仏教が中国に伝わると、霊魂を扱う道教と孔子の儒教等の哲学道徳の中間におかれました。道教に十王思想があり、人は死後冥府の十人の王に裁かれることになっていました。インド式の七仏事では三人の王が余ってしまいます。そこで百ヶ日、一周忌、三回忌の三つを加えて道教の十王を十仏事の本尊にしました。後に十王は十の如来菩薩に変わり仏教の要素が強くなってきました。 日本に仏教が伝わると初七日があるから七回忌をしよう、二七日があるから十四回忌をしよう、ただ十四は偶数なので十三回忌となりました。日本に伝わった仏教は大乗仏教で観音信仰がさかんでした。観音菩薩は三十三の身に変じて人を浄土に導いてくださるという三十三変化観音の思想から三十三回忌が加わりました。十三仏事に十三体の如来菩薩を本尊とする為十三仏信仰が始まりました。 更に十七回忌等、二十三回忌、二十五回忌、二十七回忌が加わりました。五十回忌以降は五十年ごと遠忌が行われる地域もあります。

6月のミニ法話
 卒塔婆(そとうば) (塔婆(とうば))



年忌法要(ねんきほうよう)やお施餓鬼(せがき)、お盆(ぼん)やお彼岸(ひがん)などの際に卒塔婆を建てて祖先(そせん)の供養(くよう)をします。
 塔婆の原形は、お釈迦さまの遺骨(いこつ)「お舎利(しゃり)」を祀(まつ)った仏舎利塔(ぶっしゃりとう)ストゥーパで、インドから仏教と共に各地に伝わり建立されました。
ストゥーパの代表的な形の一つに五輪塔(ごりんとう)があります。お釈迦さまは宇宙の元素を固体、液体、熱、運動の四つとしました。中国ではそれを漢字一文字で地(ち)、水(すい)、火(か)、風(ふう)と表現しました。
更に四元素を総称して空(くう)とし、地水火風空の五輪(ごりん)を集めて塔の形でお釈迦さまの御尊体(ごそんたい)を再現しました。
 ストゥーパを漢字に音訳(おんやく)して卒塔婆、更に略して塔婆と呼んでいます。もと石の五輪塔が平面の木の板状になりました。板塔婆(いたとうば)の上部は空を宝珠で、風を半球で、火を笠で、水を球で、地を角[立方体]で表しています。
 板塔婆を簡略化した経木塔婆(きょうぎとうば)[水塔婆(みずとうば)]、大法要の際本堂正面に建てる角塔婆(かくとうば)、墓石のかわりの墓標(ぼひょう)、中陰忌(ちゅういんき)の供養の七本塔婆(ひちほんとうば)、など法要や供養の趣旨(しゅし)にあわせて多様化しました。




3月のミニ法話
 この「下化衆生」は和尚様方の機関誌に執筆したものですが、専門用語が少なく皆様の理解の助けになる部分もございますので、7回に分けて記載致します。
その旨、御理解頂けますようお願い申し上げます。

      下 化 衆 生  そのF

 
 かつてこの研修が四泊五日の普通布教講修会・住職学研修会であった時代に較べ、何と期間も内容も質も向上し、かくも盛大な研修に成長した事を体感致しますと、第一回大徳寺で始めました特別住職学は御本山大徳寺様の名の通りの菩薩行が次々と各本山に受け継がれ布教団・布教師会の御法愛に恵まれての実現かと感動を禁じ得ません。   それにも増して一ヶ寺の御住職様・副住職様となっても求道の志微塵も失われていない受講生各師の御精進には「臨済の仏法ここにあり」と叫ばずにはおられない程の感動でございました。
 開山國師のお示しの通り「無理会の処に向かって究め来り究め去った」十日間となりました。僧堂を永暫し、住山した寺を道場とし精進しましても、原点に還る時期が必要でございます。   下化衆生をふまえの十日間は禅僧として仏法を学び直す勝縁となり、同時に上求菩提の生活でございます。   六十才代の和尚様が「定年までは役所勤めがあって時間が取れなかった。このまま遷化する訳にはいかない。もう一度仏法を学び直し、胸を張って遷化していきたい。」と仰っていた姿が忘れられません。歩々是道場を実践する為にも、もう一度叢林に身を投じ、仏法を共に学ぶ体験をお持ち頂くことを願っております。


12月のミニ法話
この「下化衆生」は和尚様方の機関誌に執筆したものですが、専門用語が少なく皆様の理 
解の助けになる部分もございますので、7回にわけて記載致します。
その旨、御理解頂けますようお願い申し上げます。




下 化 衆 生 そのE


 七教区願成寺濟宗真和尚は二回目の御参加であったかと存じます。前回南禅寺様での実修同様 静かでご誠実なお人柄に加え、今回は前回の経験と二年間の準備期間が効を奏し、より自信に満ちた話し方で皆様の信頼を不動のものにされました。話の内容も充実しておりました。特に論文のできは素晴らしく秀逸のできでございました。
布教師は兎角話好き、オシャベリで言葉多く禅僧として軽くなる傾向も一部にございますが、師にはそうした要素微塵もなく、魅力的な新しい布教師様の誕生は法幸至極に存じます。
 本派の「龍寶」の為ですので他の受講生各師のことは省きますが、誰もが真剣に研修に取り組み、多端な自坊の法務等から離れ一佛弟子・一修行者として精進され、何とも充実感のある内容豊かな研修となりました。
 






 
来月に続く・・・

7月のミニ法話
この「下化衆生」は和尚様方の機関誌に執筆したものですが、専門用語が少なく皆様の理 
解の助けになる部分もございますので、7回にわけて記載致します。
その旨、御理解頂けますようお願い申し上げます。




下 化 衆 生 そのD







 第四回特別住職学布教研修会にご参加なさいました本派の和尚様方について所感を申し上げます。
 八教区大分の圓福寺廣見宗泰住職は、御自坊の多端な御法務を調整し十日間を確保しての御参加でした。法話原稿作り、深夜方丈の隅で実際に声を出し滑舌や言いまわしの練習と時間配分、それを繰り返し繰り返し辛抱強く練習なされていらっしゃいました。体力の限界というと大げさに聞こえるかもしれませんが、そんな厳しい十日間の実修をすごされました。頭の下がるお姿を毎夜拝見致しました。
 六教区寶林寺西村宗斎住職は初参加でございました。小衲は師が大徳僧堂・南宗僧堂の雲衲時代から存じ上げておりました。南宗僧堂吹毛軒老大師の晋山式では加担和尚の粥斎茶礼薬石の準備や片付け、老大師の隠侍・侍香、全体がうまく進むよう三面六臂の大活躍でございました。ふだんの和尚は坐禅を常とし寡黙でコツコツ作務をする老古仏のような人柄であります。法を説くことは苦手なふうに感じておりました。   しかし実際には人を惹きつける話術を持っており、無駄な言葉なく、人に伝わる話・仏法が丸出しになる話をされ注目を浴びました。   謙遜で静かなお人柄も好評でした。初回の経験をいかされたら次回大成長される事は誰もが疑う余地を持ち得ませんでした。
 

 



 
来月に続く・・・

5月のミニ法話
この「下化衆生」は和尚様方の機関誌に執筆したものですが、専門用語が少なく皆様の理 
解の助けになる部分もございますので、7回にわけて記載致します。
その旨、御理解頂けますようお願い申し上げます。




下 化 衆 生 そのC






 また、各受講生諸師が精一杯ご精進なされ、日を追うごとに信頼と尊敬の念がつのり、切磋琢磨の十日間は実力の大幅な向上と新たな友人を獲得できる貴重な勝縁になりました。
 本宗僧侶は、徒弟時代・学生時代・僧堂同参あるいは会下の先輩後輩、教区地域で道友や親友が得られます。   しかし今回の第四回特別住職学で道友を得られた受講生も数多くいらっしゃったと聞き及んでおります。同じ派内で親交を深める方あり、もちろん派を越えての交友ありで、同時に情報の交換もされておりました。研修後も交友は続き得がたき新たなるサンガが誕生致しました。   これも受講生諸師、幹事寮一体となり、真摯で精彩ある十日間をすごしたご褒美と感謝致しております。




 
来月に続く・・・

3月のミニ法話
 この「下化衆生」は和尚様方の機関誌に執筆したものですが、専門用語が少なく皆様の理解の助けになる部分もございますので、7回に分けて記載致します。
その旨、御理解頂けますようお願い申し上げます。



下 化 衆 生  そのB


 
   質問や相談は深夜まで続き、最高齢の主監様も寝室へ入れず、一晩中幹事寮にいらっしゃった日もございました。一番若輩の小衲ももちろん徹宵はいく晩もいたしましたし、早くても午前二時頃までは寮舎におりました。
 しかし、受講生諸師は、発表の順番や原稿の進みぐあいご自身の体力体調を考慮し、徹宵する日、深夜まで拈提する日、解定で休む日と、各自判断なさればよいので心配はございません。
 確かに高等布教十五日間、特別住職学十日間を単純に日数で比較致しますと、少ないのは事実でございます。   しかし、実習時間と受講生人数で考えますと、特別住職学はいかに厳しく濃度の濃いものかご理解頂けますものと存じます。   このように充実した研修ですので是非数多くの住職様方副住職様方御高徒衆にご参加頂きたいと存じます。

 

 


来月に続く・・・

2月のミニ法話
 この「下化衆生」は和尚様方の機関誌に執筆したものですが、専門用語が少なく皆様の理解の助けになる部分もございますので、7回に分けて記載致します。
その旨、御理解頂けますようお願い申し上げます。

     下 化 衆 生  そのA


 小衲は南禅寺様を会所とする第三回、建仁寺様の第四回に副主監として幹事寮に入りました。   幹事寮諸先輩、複数出席の受講生諸師に伺いますと、南禅寺様では過去三回の内、今回程充実した研修は初めてという感想を聞きました。  更に第四回建仁寺研修は一層深く豊かなものとなり、平成二十一年の第五回研修を担当なさる幹事寮は、さぞやご苦心なさるのであろうと心配になるほどでございます。
 また妙心寺様の高等布教講習会に較べましても越格の内容の豊かさ、厳しさであったと聞きました。
 提唱くださるお師家様は大徳・相国・南禅・建仁・東福・天竜の各本山管長老大師または本山僧堂の老大師で、毎回違う境界・個性に直に触れることができます。
 外部からお招きする講師方は各本山・布教団ご縁のある先生方で、分野は変化に富み内容豊かでいらっしゃいます
 また会所は六本山の方丈庫裏を巡にご提供頂けます為、十日間も生活しておりますと、各本山の特徴や家風を感じることができます。  これらは全て連合各派ならではの恵まれた環境でございます。  更に連合は三人の主監と二人のベテラン布教師が幹事となり、五人が自習時間はもちろん、解定後まで質問や相談を受けてくださいます。   七十才代後半の総合主監・関照軒濱田徹道老大師はじめ六十才代・五十才代の三人の主監は、それぞれ祖父・父・兄のように相談にのってくださるとの感想も寄せられております。

来月に続く・・・

1月のミニ法話
 この「下化衆生」は和尚様方の機関誌に執筆したものですが、専門用語が少なく皆様の理解の助けになる部分もございますので、7回に分けて記載致します。
その旨、御理解頂けますようお願い申し上げます。

     下 化 衆 生  その@


 上求菩提・下化衆生は大乗仏教・臨済禅・紫野仏法一貫して実践すべき姿でございます。
 本来禅は日常の坐禅・作務・法要・読経等、行往坐臥著衣喫飯の中で僧俗共に仏法を行じ個人の体験から伝播すべきものであるとされてきました。   しかしこう大衆の生活が多忙を極め「僧俗共に仏法を行じる」機会が少なくなると、何らかの方法で補う必要がでてまいります。
 また和尚方は法務に追われ、寺を訪ねる檀信徒も住山以降益々増大し、関係管庁に提出する書類も増え、「動中の工夫、静中に勝る」とはいえ、なかなか仏道修行に時間が見出すことが難しくなってまいりました。
 この両者を解決する一つの方法に連合各派主催の「特別住職学布教研修会」がございます。   「龍寶」誌平成十九年盂蘭盆号で六教区宝林寺西村宗斎和尚が体験談を述べられましたが、別の視点から特別住職学の存在価値を検証してみたいと思います。

来月に続く・・・

12月のミニ法話
前月よりつづく

人は多くの困難や不満を抱えています。同時に、その困難が除かれたら幸福になれると誤解しています。
第一の困難が除かれても第二の困難を格上げし、人の不満が無くなることはありません。

釈尊の智慧「仏法」は、今ある困難をそのままに、幸福になっていく教えです。
仏法は教える。悲しみや苦しみは慈しみや優しさを学ぶ機会であり、不満や不幸は工夫や智慧を発揮する活性剤なのだと。

仏法には、内在する可能性や他人様や社会からの恩恵に気づく為の教えや修行が多様に準備されています。
それが宗教の素晴らしさであり、仏法の完成度の高さなのです。

世の中には苦しみ悲しみ不幸不満に失意の日々を送る人が溢れています。内に向かえば自殺、外に向かえば犯罪に至ることがあります。

どうか迷える人々苦しむ人々が、仏法を学び実践する仏弟子修行者とであい、不都合を除かないまま幸福を実感して頂きたいと切に望むものであります。

来月に続く・・・

11月のミニ法話
今月のミニ法話 かつて現実を切り取って小さな紙面に凝縮するだけだと思っていた写真は、光や絞りシャッタースピード角度等諸条件とカメラマンの感性により、芸術へと進化しました。写実であった絵画が題材以上の輝きを放つ処まで高められた行程に一致するからでしょう。

人の一生において、その方向、角度、距離を変える智慧が仏法という宗教であり、仏法ではそれを「転依(てんね)」と呼んでいます。

人は親に頼り、配偶者に頼り、子に頼る。お金に頼り、物に頼り、地位権力名誉衣装に頼る。そんなものは簡単に無くなってしまうぞ。もっと確かでしっかりしたものに頼ればいいじゃないか。それは自分自身であり、真理なのだと。転依とは依り処を転ずる(変える)ことであり、自分や真理を依り処にすることを、 自(じ)灯(とう)明(みょう)法(ほう)灯明(とうみょう)といいます。

来月に続く・・・

このページのトップへ
space
 
HOME - 仏教の楽しみ方 - 仏教相談 - 仏教の理解 仏教語の解説のバックナンバー
今月のミニ法話のバックナンバー - こんなときはどうかんがえますかのバックナンバー
寺院概要/アクセスマップ - お問い合わせフォーム/サイトポリシー
小田原にある宗教法人 昌福院は仏教・座禅を通し皆様に楽しんでもらう所です。