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禅語の楽しみのバックナンバー |
禅語の目次 |
大哉心也 |
坐看雲起時 |
寒山詩 |
弄花香満衣 |
無事是貴人 |
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<<大哉心也(おおいなるかなしんや)>> |
<<大哉心也(おおいなるかなしんや)>>
出典 興禅護国論。
建久九年(1204)に選述された栄西(明庵栄西)の代表書の一つ。目的は大きく分けて三つある。一つには比叡山からの禅宗排斤運動の抑止。二つには当時批判を受けていた法然の専修念仏・大日能忍の達磨宗と内容を異にしていて、禅宗こそが末法の時機にふさわしい正法であることの説明。三つには朝廷に対し、禅宗は正法の実践方法として他の仏教より優れていること。禅宗は仏教のみならず、国家鎮護・国力興隆に絶大な思想であることを奏上するための建白書。ただ目的としては以上三項目であったが、実際朝廷に提出されたか否かは歴史資料上判断がつかない。
この興禅護国論の中心が「大哉心也」である。大きな心・雄大な心・仏法で解決否定すべき我見(がけん)・我儘(わがまま)[自分勝手なものの見方、正見の対極の見方]を滅し尽くした仏の心。個々のわがままな小我を否定した宇宙の心・大我(みほとけのみこころ)をいう。「大いなるかな心や(おおいなるかなしんや)。天の高きは極むべからず。しかるに心は天の上に出ず。地の厚きは測るべからず。しかるに心は地の下に出づ。日月の光は踰(こ)ゆるべからず。しかるに心は日月光明の表に出づ。大千紗界(だいせんしゃかい)は窮むべからず。しかるに心は大千紗界の外に出づ。云々大いなるかな心や」 |
坐看雲起時 |
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≪ 坐看雲起時 ≫
雲在嶺頭 行到水窮處、坐看雲起時(ゆいてはいたるみずのきわむるところ、ざしてはみるくものおこるとき)谷川の流れの上流をずっと逆上ってゆき、坐って雲の湧くのを無心に眺めている様子。無心の境界、無心のはたらき。
宗の周弼が編集した「三體詩」中の詩の一節。
三體詩は明応三年(1494)刊で、唐の詩人一六七人の七言絶句、七言律詩、五言律詩の三体の詩を集めたものである。唐の王維(おうい、字は摩詰まきつ)は李白、杜甫と同時代の人で画もよくし、書道や音楽にも通じていた。
王維の「終南の別業」と題する五言律詩中の語である。
中歳頗好道 ちゅうさい、すこぶる道を好み
晩家南山陲 晩にいえす 南山のほとり
興来毎独往 興来れば つねに ひとりゆき
勝事空自知 しょうじは 空しく 自ら知る
行到水究所 行ては到る水の究る処
坐看雲起時 坐しては看る雲の起る時
偶然値林叟 偶然 林叟にあい
談笑無還期 談笑してかんき無し |
≪ 寒山詩 ≫ |
欲得安身處 安身の処を得んと欲せば 寒山可長保 寒山長しえに保つべし 微風吹幽松 微風 幽松を吹く 近聴声兪好 近く聴けば声いよいよ好し 下有班白人 下に班白の人、有り 喃々読黄老 喃々として黄老を読む 十年帰不得 十年帰ることを得ず 忘却来時道(路) 来時の道を忘却す
○安らかに暮らせる場所をお望みなら、寒山は実によく環境が整っていて、不変である。 ○松林にはそよ風が吹き、肌に心地よい。部室から出て松林を散策してみると、それは一層極だつ。 ○ふと気づくと、シラガまじりの人が太めの松にもたれかかってフムフムと黄帝と老子の書を読んでいる。 ○この寒山に来て十年、初期の苦行の時代、驀直に修行に励んだ時代、悟りを確認し心の霧が晴れて未悟りの時にはわからなかったことが手に取るように明らかになってきた時代。 そして今では、かつてあんなに苦しんだ若き日々、迷いに迷った頃がまるでウソのように平穏な日々をすごしている。 |
弄花香満衣 |
≪ 弄花香満衣 ≫
「掬水月在手、弄花香満衣」(みずをきくすればつきてにあり、はなをろうすればかおりころもにみつ)の対句の下の句。水を掬(すく)えば手中のわずかな水にも月が宿り、花とたわむれるとその香りが身について花と一体になってくる。 禅では月を悟りの代名詞によく使う。月は大海にも湖沼にも小川にもコップの水に写る。どんな小さな存在にも仏心仏性は平等に備わる。花の香りを良い教え、智慧のあるはたらきと考えると、よい教え、達人と交わっていると知らず知らずのうちのその影響を受けるものである。逆もまた然りで自分のいる環境が大切であるという教え。 虚堂録(きどうろく)の中の言葉。 虚堂智愚(きどうちぐ)は大徳寺開山大灯国師宗峯妙超の師匠の師匠である。博多山宗福寺開山、京都龍翔寺開山大応国師南浦紹明は入宋して虚堂のもとで朝参暮請して嗣法し、帰国後、禅を挙揚し、前記両寺他の開山となり、鎌倉建長寺十三世ともなった。 大灯国師は大応国師建長寺住山時に嗣法し、後に大徳寺を開いて活躍された。 虚堂和尚の遺された言葉をまとめて「虚堂録」が作られたが、その語録中の言葉で、もとは于良史(うりょうし)という詩人の「春山夜月」という詩の中の対句といわれている。
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無事是貴人 |
無事是貴人 ぶじこれきにん。臨済宗の宗祖臨済慧照禅師義玄和尚の遺された言葉を弟子の三聖慧然が集めて語録に仕立てた。所謂「臨済録」である。 「臨済録」は馬防の序に始まり、上堂・示衆・勘辨・行録(あんろく)からなる。語録だけでなく行録もあることから、臨済録は言行録(ごんぎょうろく)である。 この語は示衆のはじめに見られる。 師、衆に示して云く。道流、切に真正の見解を求取して、天下に向かって横行して、這の一般の精魅に惑乱せらるることを免れんことを要す。 無事是貴人。但だ造作すること莫れ、祗だ是れ平常なれ。 臨済が修行者に向かって言った。真実「仏のさとり」を手に入れようとするならば、あっちこっちさがし回って偉そうなもの、有難そうなものを見つけて、その奴隷になっていてはいけない。自らが何ものにもとらわれない、何ものにもこだわらない、どちらへもかたよらない心でいることほどゆたかなことはない。みんな小手先の細工が多すぎていけない。無造作にならないといけない。うそで繕おうとしてはいけない。 ありのままに、まっ正直に、飾らずに、自分の欠点を丸出しにして生きてゆくのが無事であり、平常ということだ。
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小田原にある宗教法人 昌福院は仏教・座禅を通し皆様に楽しんでもらう所です。
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